2010年05月の記事 (1/4)

本別高の蓑口教諭、ノモンハン事件の現地取材へ

 本別高校の蓑口一哲教諭が、今年の夏、モンゴルへ「ノモンハン事件」の取材を計画しています。
 蓑口教諭は風化しつつある戦争を語り継ぐため、2002年からかつての戦場に足を運び、体験者の証言に基づきながら、当時を追体験する手法で戦争資料をまとめています。これまで中東やアジアを中心に約30カ国を訪問。昨年は夏にパラオ共和国のペリリュー島、年末に中国雲南省を取材に訪れました。
 今回取り上げるノモンハン事件では、日本側の戦死者約8000人のうち約1500人が北海道の部隊に所属。戦死者数は、旭川の第7師団の歩兵第26連隊が出征者の9割超、同第28連隊が7割超と他の部隊に比べて突出して多く、「いわば戦地の最前線に送られた北海道の部隊が玉砕した戦闘」との見方から、取材対象に設定したとのことです。
 予定では、8月7日(土)に出国し、中国経由で同9日にモンゴル入りします。チョイバルサン市からジープでハルハ川周辺のスンベル村に入り、13日まで取材を続け、15日に帰国する予定です。ハルハ川周辺には、今も戦車や大砲の残がい、戦死者の遺骨などが残っています。
 蓑口教諭は、これまでの事前取材で、現地に出征した道内の戦争体験者数人と接触。複数の体験談を聞き取りを行っています。さらに現地で詳細に取材を進めるため、より多くの情報を集めたいということです。

《参考:半藤一利著「ノモンハンの夏」文藝春秋刊》IMG_9581
 参謀本部作戦課、そして関東軍作戦課。このエリート集団が己を見失ったとき、満蒙国境での悲劇が始まった。司馬遼太郎氏が最後に取り組もうとして果せなかったテーマを、共に取材した著者が、モクスワのスターリン、ベルリンのヒトラーの野望、中国の動静を交えて雄壮に描き、混迷の時代に警鐘を鳴らす。(写真)

《参考:ノモンハン事件》

 ノモンハン事件(のもんはんじけん)とは、1939年(昭和14)「満州国」とモンゴル(外蒙古)の国境ノモンハン付近で起こった日ソ両軍の大規模な武力衝突。(地図
 ノモンハン付近の国境について、日本側はハルハ河を、ソ連側は北方ノモンハン付近をそれぞれ国境と主張し、かねてより係争中であったが、関東軍は1939年(昭和14)4月隷下(れいか)部隊に示した「満ソ国境紛争処理要綱」において、紛争に際してはソ連軍を徹底的に膺懲(ようちょう)せよとの方針を決定した。たまたま5月12日に、ノモンハン付近でハルハ河を越えた外蒙軍と満州国軍が衝突する事件が起きた。ハイラルの第23師団長小松原道太郎中将は、関東軍の先の示達によりただちに部隊を出動させ外蒙軍を一時撃退したが、ソ連軍は外蒙軍に加わって反撃した。報告を受けた関東軍司令部はソ連軍撃破の強硬策を決定し、航空部隊による外蒙の後方基地爆撃に続いて、7月2日第23師団が攻撃を開始した。しかし日本軍はソ連軍の優勢な火力と戦車の反撃を受けて苦戦に陥った。日中戦争の最中にあって、事件がさらに日ソ戦争に拡大すること1を恐れた大本営は不拡大方針を決め、政府も事件の平和的解決の方針を定めた。しかしこれを無視した関東軍は7月23日、攻勢を行い、これに失敗後もなお兵力の増強を図り、第三次攻勢を準備した。一方、ソ連軍は国境線回復のため8月20日から狙撃(そげき)・戦車両師団の大兵力を集中した総攻撃を開始し、日本軍は第23師団壊滅の大敗を喫した。おりから9月1日ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)したため、大本営は攻撃の中止と兵力の後退を厳命し、モスクワにおける交渉妥結を急ぎ、9月15日モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)大使の間に停戦協定が調印された。軍中央は敗戦の責任により関東軍の植田謙吉(けんきち)司令官と磯谷廉介(いそがいれんすけ)参謀長を予備役に編入したが、参加部隊では責任をとって自決する部隊長が相次いだ。事件の敗北は、陸軍の対ソ開戦の企図に重大な打撃を与えた。
出典:日本大百科全書(小学館)
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6/

スポンサーサイト